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足柄古道は古代より東西をつなぐ重要なルートで多くの文化財が点在しています。また、足柄峠には関所が設けられていました。
足柄古道(あしがらこどう)
足柄古道とは、足柄の山の中に 残っつている昔の道のことです。 小田原で取れた魚や海草などの海産物は、この道を通って山梨に運ばれました。
石尊松と石尊仏
たくさんの人々が通る足柄の山道に、昔の人々は 石の仏を立て松の木も たくさん植えました。 松の木は200年も過ぎると、見事な 松並木になりました。 その中でも石 尊松は特別大きな松で足柄の名物 の一つになりました。 ところが今から およそ80年前ほど前の大正時代、 かれてしまいました。 石の仏も大正12年(1923年)の 大地震のあと行方がわからなくなって しまいました。 平成の時代になって「足柄史跡を 守る会」により2代目の松が植えられました。 新しい仏様も立てられました。
赤坂の名は昔このあたりから 須恵器(茶碗や壷)を造るのに 使う赤土が取れたのでこのよう に名づけられたと言う事です。
天狗松
足柄山の天狗たちは空を飛ぶとき、 この松の枝にとまってひと休みをしました。天狗の羽根を拾った人もいたそうですよ。 満月の夜には、ときどき天狗たち の話し声も聞こえるそうです。
駒止めの松
足柄峠をこえて荷物を運ぶときは、人がせおったり、馬の背にのせたりしました。急な坂道を登って重い荷物を運ぶことはとてもたいへんな仕事でした。この松のところに来ると、馬も人もひと休みしました。「こま」とは馬のことです。
景気石
松の根っこに、ひっそりとはさまっている石があります。この石は世の中がよくなる ともっと地面からあたまを出し、わるいことがおこるようになると土の中に深くひっこんでしまうそうです。
呼まわり石
道をはさんで向かい会う「おとこいわ」「おんないわ」 といわれているふたつの岩があります。おおみそかのばんには「おまえも新しい年をとったかい?」と声をかけあったそうです。
夜泣き松
子どもが夜泣きをして困ると、この松の木削って燃やし、その火を見せました。するとすぐ泣きやんだといわれています。 あまりけずりすぎたので、もとの木はかれてしまいました。今の松はそのあと植えなおしたものです。
相模の国大磯の長者の娘虎御前はこの石に座って夜を明かしながら曾我兄弟がおとうさんの敵討ちを出来るようにお祈りをしたそうです。
それ以来この石は「虎御前石」と呼ばれるようになったということです。 女の人が富士山に向かってこの石の上にすわり、願い事をするとその願いがかなえられると言われています。 虎御前古道写真曾我十郎・五郎の兄弟はおさないとき源頼朝の家来工藤祐経におとうさんを殺されてしまいました。ふたりは、なんとかしておとうさんのかたきをうちたい、と思いながらそだちました。
1193年、頼朝は富士の裾野に家来たちを集めると、大がかりな「まきがり」をしました。 「まきがり」とはけもののかりをしながら、たたかいのくんれんをすることです。 十郎・五郎の兄弟はまきがりに来ていた祐経をおそって、ようやくおとうさんのかたきをうつことができました
1335年12月11日の朝、後醐醍天皇方の新田義貞の軍と足利尊氏の軍が竹之下ではげしい戦争をはじめました。 これを「竹之下合戦」といいます。戦ケ入り古道写真 戦いは足利尊氏の軍が勝ちました。尊氏は京の都で天皇に代わって新しい政治をはじめました。 「戦ケ入り」は両方の軍が戦いをはじめた場所と言われています。
馬蹄石
源頼朝は富士の裾野のまきがりに行くため、足柄山をこえてきました。 そして、ここで馬を止めて休んだと伝えられています。 後に、馬のひずめのあとが ある大きな石が地面(じめん)の中がらあらわれてきました。 そこで、里の人々はこの石を馬蹄石(馬のひずめの石)と名づけました。 他に、頼光対面の滝・ 滝のかべの仏像・ 銚子ケ淵古滝・椿ケ淵 などがあります。